10/29 日本語は議論に不向き?:コメントへの返事を兼ねて

こんばんは。なんと初めて見ず知らずの方からコメントが来ましてビックリしちゃいました。

 

・コメント

コメントを頂いたのは2週ほど前にした悪辣な愚痴......正当性と議論不能性への愚痴でした。

コメントを下さった方によりますと、

①日本人が正当性を理解しづらいのは、(明治維新の影響もあり)日本の慣習と日本の法が噛み合っておらず、「慣習」(暗黙の了解やらなんやら)と「法」の2つの正当性が混在しているから......とのこと。(ちゃんと捉えられてるか分からん〜〜〜)

②そして議論が出来ないのは、そもそも日本語自体が、責任の所在が不明確で議論に不向きだから......とのこと。

 

なるほどな〜〜って感じです。①なんかは全面的に納得しました。如何せん僕は言語化が不得手なので、何とな〜く感じているようなことを言語化して頂けると非常に助かります。

 

ところが②......納得する面はありますが、僕は全面的に納得という感じではありません。日本語が議論に向かない、というのは、「即興の議論に向かない」ということに過ぎないと思うのです。

日本語は主語が無くても成立しますし、文末まで聞かなければ「opinion」なのか「fact」なのかもハッキリしません(正直聞いてもハッキリしない)から、責任の所在が曖昧になるのはまさにその通りだと思います。だから即興の場では意見整理がしづらい。いわゆる「ディベート」をやろうとすると「場」を整えないといけません。

しかし日本人が議論を出来ない根本的な理由は、それこそ①で出たように「暗黙の了解が強い」からだと僕は思うんですよね。明確にものを言うと白眼を向けられる、「出しゃばるな」みたいな暗黙の了解。僕もこのブログはかなり濁した言い方しかしませんし。敵作りたくないですからね......。

「ハッキリものを言わない」はもう文化なのでどうしようもないでしょう。ただ、僕は「ハッキリものを言うこと」がディベートの前提条件とは思えないのです。曖昧な言い方、真偽のはっきりしない言い方、どっちつかずの言い方......そこには当然2つ以上の考えが含まれます。いわゆる「ディベート」......「欧米式のディベート」って、ほぼ必ず「肯定」と「否定」に分かれるじゃないですか。ですから、国際的な「ディベート」の場面では日本人は大いに遅れをとるのだと思います。しかしながら日常的な議論の場で、必ずしも片側の意見を持たなければならない道理はないでしょう。2つの意見を持ちつつ、どちらがより良い案なのかについての議論を重ねる......そこに対立が存在する必要は無いと思うのです。まぁ「ディベート」って「議論における論理能力」を涵養するためのものという性格があるように感じるので、一概に比べるのは非常に浅慮な気がしておりますが。許してください......。

要は、僕は「日本式ディベート」の可能性を探りたいのです。「ディベート」というとマズいかもしれまんね。「日本式意見統一」でしょうか。もちろん議論が起こる以上初めには意見対立の軸が存在するのでしょうが、それを可能な限り融和へ近づけるための手段が必要だと思うん のです。

日本人の「奥ゆかしさ」を重んじる文化を持ちつつ、同時に議論ができるような、そういうセオリーが必要ですよね。日本にただ欧米式ディベートを持ち込むだけでは、それこそ「法」と「慣習」の二重正当性みたいになってしまうと思いますし。

まぁ、完全に理想論で「じゃあどうすんの?」って言われたら詰むんですけど!(そのために大学行くんだよ!)

 

兎にも角にもコメントを頂けて嬉しかったです。やはり完全に理論立った意見を書くのは困難でした...許してください......。結局理想論になってしまいましたが。名も知らぬ人ですが、どうぞまたよろしくお願いします。