3/18 平和と知る自由の共存

ある事件があった時に、それまで違和感なく見ていた別の何か(something)が全く違ったように見えるようになることってありますよね。

事件によって物事を疑うようになり、正面からでなく裏から見ようとするのは自然なことです。しかし、正面から見えていた像が必ずしも虚像という訳ではないように思います。

勿論、まったくの虚飾・大嘘でした〜という場合もあるでしょうが、真正面から見える姿もまたその「何か」の一面ではないでしょうか。にも関わらず裏が見えてしまうが故に、「何か」が負のイメージを持つようになることが多々あります。そしてある物・者に対する負のイメージというものは争いを生みがちです。

つまり、「知ることができた」ということが争いを生んでしまうことがあるのかもしれない、と考えたワケです。

実際、色んなコンテンツとかでも「下民が要らぬことを知るが故に争いが起きるのだ!」とか言う皇帝なり王族なりが登場するものを見たことがありますし、結構ありがちな部類だと思います。トマス・ホッブズの「リヴァイアサン」でも、全人類が自然権を自由に行使すると

「万人の万人に対する闘争」に陥ると書いてあるらしいですよね。(一度読んでみたい気がする)

しかし、イマドキ「知る権利を放棄しよう」なんて考えは馬鹿げてるとしか言えないでしょう。

物事の様々な面を知ると同時に、知ったが故に起こる諍いを回避するにはどうしたらいいのか?

「裏」だけが本質なのだと思い込まず、物・人がどのような意図で作られた・行動したのかよく考えます......とか言っても漠然としてますし、理論も何も無いですし、言うは易しって感じですしで解決にならなさそうですね。

そもそもこんな問題を深夜0時から寝ぼけ眼で考えるのが無理ゲーです。こんな状態で解決できるなら世界はもっと平和でしょう。

という訳で、この記事はいつにも増して備忘録の性質が強いものです。こういう問題もいつかより本格的に、本質的に考えられたらいいよねと思い、それを書き留めていつの日にか目に留まればラッキー!という感じで。

相変わらず漠然としていますが今後もよろしくお願いします。