10/28 SNSは「他者」としての世界なのか

今日解いた現代文かなり調子良かったの、定期的にブログ書いてるからでは?(USDX希望的観測)

 

・本日の現代文

本日の演習は2019年度東大第4問、あの是枝裕和氏の随筆でした。

筆者の「迷子になった」幼き日の体験を回想し、その回想から「迷子は、人が大人になる過程で体験することを幼ながらに否応なく経験させられるという出来事」と述べます。

迷子になったとき人は、自身を無条件に庇護してくれる大人の存在を失い、自身を気にかけず関心もむけない「他者」である世界に1人で向き合わねばならない。「孤独」を受け入れねばならない。そしてそれは、人が大人になる(保護者を離れ、一人で生きていく)過程でも経験される......とのことです。

それには当然、痛みや苦しみが伴います。

 

SNSと「他者」としての世界

SNS......あるじゃないですか。SNSの中でフォロワーと(バーチャルに)親密になることもあるじゃないですか。そして、言わば仮想上の(正直都市部住民同士だと最早仮想じゃないのでは?とも思いますが)友人となった彼らは、互いを気にかけ、互いに関心を向ける者も多いわけです。このとき、誰もが「他者」で、あらゆる苦痛を孤独に、自分一人で受け入れなくてはならなかった「他者」としての世界の中に、最早「他者」ではない者とのネットワークが築かれていると言えるような気がします。

これについてどう思いますか?多くの人が「それでは大人になれない」と言うかもしれません。しかしながら僕はやはり「それも悪くはなかろう」と思いたいです。僕がまだ子供である故かもしれませんが。

共助は人間社会の基本!!1万年前以後にヒトが農耕を始めてから......否、その以前、狩猟と採集で暮らしていた時から人々は共助によって暮らしていたわけです。

確かに、大人になれば人は多くのことを1人でこなさなければならないでしょう。助けてくれる人が常にいるとは限らない中、1人で生きる力を身につけなければならないでしょう。

しかし、だからといって「孤独」である必要があるのでしょうか?「孤独」を受け入れなければ果たして大人になれないのでしょうか?

「孤独」に耐える力もかなり必要なのだとは思いますが、大人になれば人は「孤独」......というのは少し違う気がします。むしろ、核家族化やら何やらで共助の機会を失った社会において、仮想世界の中で相互の「庇護者」を設定することが可能だという一面がSNSにある、と考えた方がいいのかも?共助が、非常に一面的な見方とはいえ、復活しているのではないか...。人は、個人主義化とかの影響で「孤独」になりがちだった中で、「孤独でない」を選べるようになったのかもしれません。

そう考えると、SNSも悪い事ばかりではないと思えますよね。何かと叩かれてばかりですけど、正直多くは利用者側の問題って感じですし......。SNSマナーを教える前に社会マナーを教えなさい。(教育学志望並感)

とまぁ、そんなことを考えておりました。久しぶりに真面目なことを書いたかもしれない......。読書を積極的にしてこなかったので、その日その日の現文なんかが話のネタとしては最強ですね。またよろしくお願いします。