10/19 戯言:Pax Nuclearna

こんにちは。今日は手短に。というか純度100%の素人目線なので戯言に近いかもしれません。

 

・本日の特講

本日は世界史特別講座。1993年度東大世界史の過去問でした。内容としては「イギリスの覇権の展開と衰退を、19世紀半ば前後から1950年代を対象に述べよ」というものです。

問題文で話題になるのが「パクス=ブリタニカ(イギリスの平和)」です。これはローマ帝国時代の「パクス=ロマーナ(ローマの平和)」になぞらえて、20世紀のイギリスの政治家が「イギリスの圧倒的国力によって平和が維持された時代」と、自画自賛して述べた言葉です。

これが2度の大戦を経て衰退、「パクス=アメリカーナ(アメリカの平和)」になった......と考えられていますが、ここはまだ見方が定まっていないっぽいですね。

で、今となってはアメリカの覇権も陰りが...ってわけなんですが。仮に第二次大戦後の世界が「パクス=アメリカーナ」でないとすれば、どう形容できるのかな〜なんて考えますと、「パクス=ニュークリアーナ(核の平和)」かな、なんて思いまして。

僕は核兵器とかいう人類の悪性の象徴みたいな武器は大嫌いですし、あんなシャレにならない代物はさっさと廃絶しやがれと思ってる人間なんですけど、それはそれとして「核抑止力」とやらの存在はまぁ理解できなくもありません。キューバ危機も正直核兵器じゃなかったら「やっちゃってる」と思うんですよね......。

しかしながら、「パクス=ブリタニカ」を眺めてみますと、「本当にイギリスの国力で平和が保たれてますか?」という疑問が当然ながら生まれます。結局その「パクス(平和)」とやらは「イギリス本国が平和」だっただけの話で、インド大反乱やらマフディー派の反乱やら、各地を植民地化する過程で川ほどの血が流れているわけで。この時期は既にイギリスは衰退し始めてる、と考えてもう少し前を見据えても米英戦争に勝っていませんし、そもそもナポレオンなんてものが生まれてますし。イギリス本国が攻撃されたことはなくとも、世界全体では結構戦争やってますよね。

「核の平和」も結局核保有国とその同盟国の平和に過ぎないよな......と。アルメニアアゼルバイジャンのこともそうなんですけど。まぁ超大国同士の戦争が一番「ヤバい」のでそれを抑止できることにかなり大きな意味はあるのでしょうが、核抑止力を核保有の理論的根拠にするのってちょっと弱い?ような気がしたり。正直この手の話って全く結論が無さそうだからあんまり深く考えないようにしよう...それがいい...(滅亡に至る道)

 

こういう、進んだ先に仄暗い闇があるような話題は気が滅入りますね。明日くらいはまた気楽な話が書きたい気がします。

10/18 燃え尽き症候群?

開設して1週間になりました。先週の病み方は尋常では無かった......

 

・燃え尽きるか否か

いつもの事ではあるのですが、「あぁ......嫌だな...勉強嫌だな...」と思いまして。当然、教師陣としては「この期に及んで勉強嫌とは何を言っているんだ?」って所なんでしょうが、嫌なものは嫌なわけです。

社会科で知的欲求が満たされる段階は越えた感じですし、正直古文漢文くらいしか楽しみがない。もう勉強嫌だな〜〜などと考えていたわけです。日曜の明るい陽気が辛い。

どこからが燃え尽き症候群なんでしょうか?僕は、燃え尽き症候群というのは「自分は燃え尽きた」と感じた瞬間始まってしまうと考えていまして、つまり燃え尽き症候群を避けるには「自分はまだ燃えられる」と己を騙し続けなければならないのです。

ではどうやって騙そうか?そういえばフードファイターは満腹中枢を騙す、みたいな話じゃなかったか?と思って調べてみたんですけど、フードファイターの人達って満腹中枢が常人離れしてることが多かったり、摂食障害だったりするみたいなので素人話には参考にならない感じでした。

というわけで、各地の「爆盛りグルメ」を食べ歩いている人のブログでに記されている「素人なりの大食いへの考え方」を読んでみました。

(引用) フードファイターにはほど遠い一般人レベルでの大食いのコツと準備のお話

まとめると、

①早食いは後々の負担がデカい&咀嚼が大事

②満腹中枢が「満腹です」と言うより胃のキャパはデカい(プロなんかはその限りでは無くあくまで素人意見だと、だそうですが)

③結局キャパを広げるには根性

これ多分脳のキャパにも通じますよね......

①一気に詰め込んではならない&よく理解しろ

②自分が「もう嫌だ...」と思っても実際はまだ勉強できる(僕は凡人なのでいくら勉強しても楽しい!!みたいにはならないので......)

③結局やってるうちに記憶量はガンガン増える

みたいな感じで。

......騙せない!満腹中枢は騙せませんでした。むしろ我々が満腹中枢に騙されていたという訳でして。つまり僕は自分の「嫌だな〜」という感情に対して、「嘘をつくな!お前はまだやれる!頑張れ頑張れもっともっと!」と根性を振り絞らねばならなかったんですね。

松岡修造が熱唱、「C.C.Lemon 元気応援 SONG」フル ver. - YouTube

こんな事実を知るために調べたんじゃなかったのに......現実は残酷ですね。

 

そんなわけで、また明日からも勉強を頑張れと自分を鼓舞しつつ頑張っていきたいと思います。ガッデム!!

10/17 平和と多様性

こんばんは。明日で1週間......というかまだ6日目なんですよね。

 

・本日の特別講座

本日は東大現代文の特別講座がありました。出題は宇野邦一著「反歴史論」。

本文の結論にはもっと色々書いてあるのですが、今日僕が取り上げるのは

「歴史は、人間の歴史をはるかに上回る広がりと深さを持つ記憶を、個人や集団の主体性・主観に基づいて局限し、一定の価値観に基づいて等質にした記憶の束だ」という点です。

「歴史をはるかに上回る広がりや深さ」......「深さ」というのは多様性のことです。即ち「歴史は多様な記憶・記録を、特定の価値観に基づいて記述する」ということらしい。更に、「歴史自体が、様々な価値観が争った中で相対的に勝利を収めたものによって記述される」だとか。極端に捉えれば「多様性は歴史によって否定される」のです。

僕は「多様性は豊かさ」だと考えるタイプでして。多様性とはつまり対応力なので、あらゆる価値観は、それが多様性自体を否定しない限り全て認められて然るべきだと考えています。

また、僕は平和主義者なので「平和は何にも優る絶対の価値」だとも考えています。

しかし歴史は価値観のぶつかり合いの結果という側面を持つ。そこで僕は「平和と多様性は共存しないのでは?」と疑問を抱きました。

昨今の世界情勢などを見渡しますと、あちこちで価値観と価値観がぶつかり合っていますよね。ジェンダーの対立なんかはいい例で。まさに、現代で広く認められ標榜されている価値観である「平和」と「多様性」が共存していない例のひとつでしょう。

(そもそも「平和」自体が「世界的に広く平和が普遍的価値として認められていること」を前提にしなければ成り立ちませんから、平和自体が多様性を否定しているのかも?流石に無いかな......)

多様性は往々にして争いの中で獲得されています。飛躍しすぎかもしれませんが、例えばチェック人がオーストリアから独立するまでにフス戦争やら三十年戦争やら1848年の革命やらを経ています。特定の民族がその独立性を得るという考えは長い闘争の中で獲得されてきました。公民権運動も暴力性は低い(マルコムXに目をつぶる)ですが闘争であり、未だ完全で無いとは言え、闘争を通して黒人は白人と同等の権利があると法的に定められたわけです。

そもそも多様性を得るために闘争が必要なのでは、僕の思想において平和なんて一生実現できないじゃないか!なんという自己矛盾。

僕はもう早々に多様性は闘争を避けられないと結論づけまして。じゃあどうやって実現するの?と言えばそれはもう「平和的闘争」しかないのだろうと考えました。多様性を求める闘争が、「闘争」と捉えられないようにするには平和的に闘争するしかないんですよね。あくまで「平和」と「多様性」をどっちも守りたいと思うならですが。戦争なり破壊行為なりする方が何も考えなくていいですし......。ガンディーもキング牧師も結局......などと言われて今では「理想主義」などと馬鹿にされる平和的闘争ですが、僕はやはりその価値を認めてあげたい気持ちですね。だって絶対その方が賢いですもん。僕が一日目に言った「なんで政治的論争で暴言ばっか吐くんですかね?」っていう主張も、そもそも議論なんて議論相手の価値観の存在を認めることからしか始まらないという考えに基づいています。

まぁ、兎にも角にも最近「暴」に寄りすぎですよね。それが今日感じた世界に対する思いと言いますか、まぁそんな感じですね。

 

明日で1週間、段々楽しくなってきました。これからもよろしくお願いします。

10/16 ①校内模試の所感 ②今やりたいゲーム

こんばんは。昨日の宣言通り今日は日常的なことをば。

 

①校内模試の所感

 我が校には校内模試がありまして、どう考えても解けるレベルに無い問題を散々解かされ、「50%の得点率を目指そう(笑)」と言われる地獄の模試になっています。成績返却後のグロッキーなクラスメイトの顔つきが風物詩みたいな感じですね。

先週行われた第3回校内模試の結果が帰ってきまして、今回は428/1000。まだ全体平均が出てないので分かりませんが、どうも前回より難化した中でようでして、そんな中前回より10点ほど点数が上がっていますので、相対的に学力が上がっていると言えるのではないでしょうか。

 ・評価点

①国語が割といい。平均も高いですが!現代文も最近は少し点が取れてきてるので引き続き頑張りたい所存。

②英語の点数向上。英語はかなり難化したらしいんですけど、第2回が60点程だったのに今回が80点強なので成長が見えますね。

・課題

①世界史......!!いやまぁこの時期に記述書けるかと言われたら基本的に誰も書けないんですが。

にしても小論述の2問目はちゃんと書きたかったですね。フランス革命の話だったんですけど。3問目のスポイルズ・システムは知りません。これは仕方ないと思いたい......

②数学。これが足引っ張りまくりです。35/135(52/200)という絶望的点数でして、う〜〜ん。厳しい。多分単純に演習量が足りないんですよね。ただ社会が仕上がってないので時間も取りにくい。どうにか時間を見つけて頑張りたいですね。完答する力!

 

こんなとこでしょうか。平均が分かったらまた感想も変わりそうですが。とりあえず社会と数学を頑張りつつ英語の向上も引き続き......という感じですね。

 

②今やりたいゲーム

コンシューマーゲームがやりたい!!!!

 

この気持ちを糧に日々を生きていると言っても過言では無い......。やりたいゲームを宣言しまして記録に残し、受験後にその情熱を思い出そうという訳で1作目。

「No Straight Roads」

僕があるゲームを買う大きな要因にBGMがあります。アトリエも音楽で買ったし、ペルソナも入口は音楽でしたし、メギド72も音楽がいいからインストールした感じです。この「No Straight Roads」ですが、Spotifyでランダム再生された「VS.SAYU(Rock Version)」というボス曲で知った感じです。この曲もめちゃくちゃ良いんですけど、僕が一番好きなのはVS.SAYUの原曲の日本語バージョンですね。

https://music.apple.com/jp/album/vs-sayu-feat-ai-yamamoto-from-no-straight-roads-japanese/1527753147?i=1527753148

......そもそも日本語バージョンがあるのが凄い。どうやらもともとスクエニとかカプコンとかにいた人が立てたインディーのメーカーらしいんですけど、バーチャルアイドルのテーマ曲にガッツリ加工かけた日本語音声を付けてくれたの感謝しか無いなぁ......英語バージョンはやはりバーチャル感は薄く感じますね。あれはあれで力強くて好きなのですが。

あとCVがね...主人公のCVが佐倉綾音福山潤。これだけで僕の中の「純然たるオタクとしての側面」がこのゲームをやらせろと叫ぶわけです。

やりたいインディーゲームって無限にあるんですけど(HadesとかCelesteとか...)、今マイブームなのはこれです。Celesteもそうですが、サントラで耐え凌ぐしかないのか......いやまぁ実際それしか無いんですが。苦しい!!人生は苦しみ。

 

とまぁこんな感じで。今日は真面目なことを書かないことを目標に進めたんですけど、思った以上に書きにくくて笑ってしまいましたね。お前はすぐ思考を複雑化させる......現国の点数が低い理由の一つそれなんですけどね。単純に考えた感想とかを、単純に説明するってことも練習していきたいところです。

10/15 愚痴:「正当性」の強度

こんばんは。今日はモヤッとしたことがあったのでそれについて。いやまぁ正直僕がカスなんですけどね.....。愚痴だけだとアレなので明日はもっとオタクっぼい話で中和したい気持ち。

 

・体育の時間

3年生と言えどやはり息抜きは必要ということで、週2時間で体育の時間が設けられています。

一学期と二学期で行える競技が違いまして、僕は一学期に競技を転々としつつもバスケに落ち着いていました。二学期はバスケを行えないはずなのですが、体育館の4分の1を占有してハーフコートで他の生徒とバスケを続けていたわけです。

無論これは「不当」ですね。「正当」に体育をしている人々の権利を奪っているわけで。いやホントすいません......その人たちは誰もこれ読んでいないであろうとは言え......。本日、ついに「正当」に体育をしている人達が痺れを切らしまして。(僕の感情としては「既成事実化する前に言ってくれよ!」となっていたのですが、即座に理性によって「いやお前が不当な行動をしてるカスなんじゃん......。」と軌道修正が出来ました)それは当然の文句ですから、僕は早々に片付けまして、不当行為をやめることを渋っていた一部の面々にも「いいから波風立たないようにしよう」と言ったわけです。しかしまぁ〜〜〜なかなか諦めませんね......。

「正当」な人たちの文句は完全に「正当」です。「不当」な側に真っ当な根拠があるなら別ですが、無論こちらにそんなものは出せません。そんなもの何処にも無いですし。

しかしながら「不当」な人々の中には、僕のことを「真面目すぎる」と言う人がいるんですね......。これで僕のメンタルは逝きました。

なるほど、正当性を支持することは「真面目すぎる」のか!!!!!!え、そんな...そんな馬鹿な......。俺が...俺が間違っていたのか...!?

それから「正当性」の強度について考えていました。正当性は他者の感情によってこうも容易に破壊されうるのでしょうか。

導き出した結論としては、「正当性」の本体は「正当であること」ではなく「正当であることを支持する人」なんだろう、ということです。

今回の場合、結局バスケは終わりになりました。まぁ当然のことなんですが、結局ゴネてる人なんて2人くらいのもので、勢力は微・微・微小だったから、というのが実際だと思います。「不当」にバスケをしている人が50人いて、その全員が「バスケをさせろ」と主張すれば、その正当性に関わらずバスケは残存していたでしょう。

「平和」なんかもそうで、戦争したい人間しかいなければ自明に戦争が続きますよね。仮に日本人の9割の体が闘争を求め始めれば、日本は即刻韓国辺りに攻め込むんじゃないですかね。本当に勘弁して下さい。

と、まぁ完全に愚痴なんですけども。僕はずっと「お前らは不当だよね?という主張は余りに正当なので、文句言われたらさっさとやめよう」と考えていたのですが、思ったよりずっと「正当性」が主張を強くしないことが分かりました。「正当性を支持しない人たち」がこれから難関大を通って社会の上層に立つと思うとゾッとしますが、そんなことも頭に置いて生きていきます。

 

こんな邪悪でガキっぽい愚痴を書き連ねても誰の得にもならないので、本当に明日くらいは平和な話が書きたいな〜!ハマってる音楽とか、好きだったゲームとか......たまにはそんな平和なことを。それを許さない受験とやらに抗っていきたいですね。

10/14 「白」と日記(ブログ)

 こんばんは。3日続けば結構続く?

 

・日記(ブログ)を始めて

かなり精神が安定していますし、勉強の集中度が上がりましたね。やはり考えてることを悶々と溜め込まずに吐き出すことは大事なのだなぁと。

 先日解いた2009年度の東大国語第1問、出典は原研哉著「白」。この文章の主題は「白い紙に文字を定着させる経験が、己のつたなさを自覚し、表現の完成度を高めることを尊ぶ美意識を生み出した。鮮やかな感動を呼ぶ表現は、後戻り出来ない状況で潔く己の表現を為そうとする覚悟から生まれるはずだ」というもので、インターネットメディアの登場も踏まえつつそんなことが説明されています。まだ添削が帰ってきていませんが、恐らくかなり残念な点数だろうなぁ......

 まぁ点数のことはどうでもいい(本当にいいか?)として、ブログを書き始めてからの精神の安定を考えた時にこの文章の冒頭を思い出しました。

(引用)「白い紙に黒いインクで文字を印刷するという行為は、不可逆な定着をおのずと成立させてしまう.....(以下略)」

文章自体は「だから、吟味しないといけないよね、という暗黙の了解がある」という主張から展開されますが、僕が今日考えたのは「不可逆な定着」についてです。

 これを書き始める前の「自分」(自分の「思考」)は、定着していなかったのでは無かろうか。未成熟とまでは言いませんが、思考がかなりぐちゃぐちゃであったことは間違いないなぁと思います。また今度書きたいなぁと思いますが、僕の思考は客観と主観に強く分離しているように感じていて(他人の思考は覗けないので断言できませんが、多くの人がそうであるのでしょうか)。もっと言うと「感情」と「理性」でしょうか。当然感情が先立って何らかの思考をする訳ですが、思考した瞬間、理性が「お前のような未熟者の思想など誤りに決まっておろう」とばかりに修正を迫ります。さながら創作でよくある天使と悪魔の口論の図といいますか。

そんなこんなで、僕の思想は定着しない。僕の中で「強めの」思想は「イスラエルに居住しながら平和を語るようなユダヤ人だけは嫌い」くらいだと思います(無論一部のユダヤ人であることはしっかりと理解しております)。

しかしながらこの「ブログを書く」という作業は「思考の過程をできる限り表現する」ことを目的のひとつとして書き始めましたので、客観と主観の両方が生きたままバランスが取れると言いますか(この括弧書きの多くはその時同時に働いている客観or主観と言っていいかも?いや分からんな......自分のことを正しく理解できない)。そして自分の中でそのバランス自体が「不可逆な定着」をするように感じています。

この白いページ上に自身の思考を書き連ねて、思考を定着させること、思考に決着をつけることが、僕の精神の安定やら、学習中の無駄な思考の低減やらに有用だったのかも?まだ3日目なのでハッキリしませんが、そんなことを考えていました。

このブログを僕がもっと「吟味」しながら書いたならば、この文章も「鮮やかな感動を呼」んだりするんですかね。まぁそんな時間は無いのですが!

とりあえずは、明日も頑張って書いていきたいです。

10/13 古文を解きながら考えた事

こんばんは。今日は気分がかなり軽い良い日です。やはり先週末はかなり参っていたんだろう...

 

・今日の古文演習を解きながら考えたこと

 本日の古文演習は06年度センター本試より、木下長嘯子著「うなゐ松」でした。

 <概要>

 筆者である「翁」の娘は齢17にして病に臥せていた。

場面① 元日でも娘はますます病が酷い様子で、翁は娘以外のことは考えず涙を流す。ある日、女の童が古歌を引用しながら梅の花を娘へ見せると、娘は「私は今日明日の命だけれど、あの世に持っていく思い出はこの花なのだろう。桜は見られないのが残念だわ」と、やつれた顔で言う。そんな様子も翁は愛しく思うのだった。

場面②2月の半ば、娘は臨終かと思われたので、多くの人を呼んで娘の形見を与えていた。

翁が娘へ、「心残り無いように、言い残したことがあるならば言いなさい」と言うと娘は、「私を火葬しないでくれませんか。先に死んで両親を哀しませたり、姉の産む赤子が見られなかったりするのが心残りなのです。どうか遺体を損なわないでください。」と言う。翁は「お前の遺言には決して背くまい」と約束した。

場面③それから4、5日すると、ある人から初桜の枝花が送られてきた。翁は早速、「お前の見たがっていた桜を見せてやろう」と花瓶に差しておいた。娘は、「私が春の移り変わりを知らぬ間に、早くも桜が咲いたことよ」と、懐かしく思い慕われそうな言葉を綴った。娘は3月の15日に死に、その無念さは比類がない。翁は娘を火葬せず埋葬したが、生き残って娘の法事などを行う老いの命はつくづくむなしいものだ。

(概要終わり)

 

嘘をつきました。「概要」では無いですねこれは......筆が乗ったんだと思って下さい。

 今年になって古文が「読める」ようになると、去年まで「要るか?この科目」と思っていた古文を楽しめるようになってきました。今回の文章はかなり好きです。娘を愛する父の感情やら、古歌を引用しながら季節の風物を見るその風流さやら......みたいな?非常に良かったです。

 特に場面②の、「私を火葬しないで欲しい」と述べる娘のシーンを読んで「なるほどなぁ」と思ったんですね。

 火葬......言われてみると凄く嫌だなと思いまして......宗教は、本来「嫌だな」と思う「埋葬」を「葬送」にしてくれるものなのかもな、と考えなどしていました。まぁ宗教のことはこのくらいにして。

 7月にメギド72で行われたイベント「生と死と、それぞれの個と」には墓守のメギドであるビフロンスが登場し、彼女の「個」(ここの「個」はイベントタイトルの「個」とは少し意味合いが違いますが......本編をやって頂いてですね(唐突な布教))そのものである彼女の死生観や「墓」に対する見解が示されます。彼女いわく、墓とは「死者の生きた証を残し」「生者の心の慰めとする」ものなんですね。今日の古文では娘の方から「私が完全に消えないようにして欲しい」と頼むワケで、ここには仏教的な価値観がかなり絡んでますね。このイベントのストーリーはかなり好きな部類なんですが、この「墓」観と「死は生における最後の輝きだ」というビフロンスの結論には特に感慨を覚えたんですよね。そんなことも思い出しました。

 生き残った者は親しい者の死を抱えながら生きていくのだなぁと。祖父が死んで6年とは言え、まだ若いのでよく分かりませんけども!

そんな生は虚しくて、どうしようもなくやりきれないものなんでしょうけど、そこにどことなく「あはれ」の感情を抱く自分がいまして、僕としてはそんな生も悪くないと思いましたし、死を輝きあるものにする為に懸命に生きるべきなのだろうと思いました。

 

 今日はこんな感じで。