11/4 人文「科学」?:脈絡の無い意見

本日の現代文演習を早々に終わらせ、少々ボーッとして、こういう時にブログの題材でも考えようと思い巡らせていました。

自身のブログについて考えていたところ、現代文......つまりは他者の考え・意見から題材を得て、それを自身の経験=具体に落とし込んで感想を述べることが多いなと思い至りまして。

誰々が何々を言っていて、それについて僕もこういう経験があったな、だったらこうも解釈出来そうだな、こうだったらもっといいな、とかそういうことを書き連ねています。

これって、一般的な「学問」とは逆かもしれないですよね。

一般的に学問、特に科学というのは周囲の個々の事象からより広い「法則」を見つけ出すものですよね。ニュートンが「リンゴの落下」から「万有引力の法則」を見つけ出したように、どこぞの物理学者が「クソデカ分子衝突させマシーン」から「なんちゃら粒子」を見つけ出すように(文系並の説明)、個々の事物からより広い事実を見つけ出すわけです。

ところがこのブログとやらはそんなものとは無縁ですから、どんどん一般を個へと収束させて自己満足を得ております。

多くの現代文の文章に扱われる題材に...人文「科学」ってあるんですよ。あるいは社会科学ですかね。この人文科学とやらの通説って、「個」に落とし込むと矛盾を生み得るものがまぁまぁあるんですよね。「僕には当てはまるけど、これ本当に皆が皆そうか...?」みたいな。

科学って帰納法なので個別の事象にエラーが含まれているならばそれらから得た一般理論もエラーがあると考えられるはずなんです。なのでこの人文科学は「科学」と呼ぶのは非常に難しくないか...?なんて考えていました。

まぁそもそも科学はイレギュラーをある程度無視しないと成立しないので、こういうことを言うのは詮無きことかもしれません。

にしても、「行動科学」なんかはまだ「脳科学」の範疇みたいな感じで受け入れられるんですけど、よくよく考えたら「人文科学」って何ですかね。Wikipediaを見ると「人間・人為の所産、それらを生み出す人間本性」を研究対象とするってあるんですけど...正直これのページは出典がゼロなので信用なりませんが。あと「科学」のページを見ると「広義の科学」とは「体系化された知識や経験の総称」らしいですね。

人間って体系化可能なのでしょうか?脳の働きは体系化できても、果たして人間の非理性的行動を体系化できるのか......それを体系化しようとする果てにあるのは「異常者」の烙印なのでは?「完全に型通りの人間」って殆どいないと思うんですよね。生物は多くの揺らぎを孕んでいると思っているので。

そもそも人文科学は「社会的に作られた人間の行動を勝手に体系化して人間本性だと宣うている」ように思えてきました。ドツボですね。そもそも相対的な人間の行動を体系化、ある理論のもとに規定することこそが、「一般的」な人間の型を作っているように思えます。つまりどういうことが言いたいのかというと、人文「科学」って呼ぶのは本当に正しいのだろうか?ということです。

 

今日は特に脈絡がない文章を書いていますね。本当に適当に書いたので許してください。ヒルに考えてた時はもっとまとまってたと思うんですけどね......。あるいは「考えはまとまっているべき」という「体系」に縛られ、自然にそう考えていたのかもしれませんが?

もっと理性的で論理的に書けるように精進します。