10/17 平和と多様性

こんばんは。明日で1週間......というかまだ6日目なんですよね。

 

・本日の特別講座

本日は東大現代文の特別講座がありました。出題は宇野邦一著「反歴史論」。

本文の結論にはもっと色々書いてあるのですが、今日僕が取り上げるのは

「歴史は、人間の歴史をはるかに上回る広がりと深さを持つ記憶を、個人や集団の主体性・主観に基づいて局限し、一定の価値観に基づいて等質にした記憶の束だ」という点です。

「歴史をはるかに上回る広がりや深さ」......「深さ」というのは多様性のことです。即ち「歴史は多様な記憶・記録を、特定の価値観に基づいて記述する」ということらしい。更に、「歴史自体が、様々な価値観が争った中で相対的に勝利を収めたものによって記述される」だとか。極端に捉えれば「多様性は歴史によって否定される」のです。

僕は「多様性は豊かさ」だと考えるタイプでして。多様性とはつまり対応力なので、あらゆる価値観は、それが多様性自体を否定しない限り全て認められて然るべきだと考えています。

また、僕は平和主義者なので「平和は何にも優る絶対の価値」だとも考えています。

しかし歴史は価値観のぶつかり合いの結果という側面を持つ。そこで僕は「平和と多様性は共存しないのでは?」と疑問を抱きました。

昨今の世界情勢などを見渡しますと、あちこちで価値観と価値観がぶつかり合っていますよね。ジェンダーの対立なんかはいい例で。まさに、現代で広く認められ標榜されている価値観である「平和」と「多様性」が共存していない例のひとつでしょう。

(そもそも「平和」自体が「世界的に広く平和が普遍的価値として認められていること」を前提にしなければ成り立ちませんから、平和自体が多様性を否定しているのかも?流石に無いかな......)

多様性は往々にして争いの中で獲得されています。飛躍しすぎかもしれませんが、例えばチェック人がオーストリアから独立するまでにフス戦争やら三十年戦争やら1848年の革命やらを経ています。特定の民族がその独立性を得るという考えは長い闘争の中で獲得されてきました。公民権運動も暴力性は低い(マルコムXに目をつぶる)ですが闘争であり、未だ完全で無いとは言え、闘争を通して黒人は白人と同等の権利があると法的に定められたわけです。

そもそも多様性を得るために闘争が必要なのでは、僕の思想において平和なんて一生実現できないじゃないか!なんという自己矛盾。

僕はもう早々に多様性は闘争を避けられないと結論づけまして。じゃあどうやって実現するの?と言えばそれはもう「平和的闘争」しかないのだろうと考えました。多様性を求める闘争が、「闘争」と捉えられないようにするには平和的に闘争するしかないんですよね。あくまで「平和」と「多様性」をどっちも守りたいと思うならですが。戦争なり破壊行為なりする方が何も考えなくていいですし......。ガンディーもキング牧師も結局......などと言われて今では「理想主義」などと馬鹿にされる平和的闘争ですが、僕はやはりその価値を認めてあげたい気持ちですね。だって絶対その方が賢いですもん。僕が一日目に言った「なんで政治的論争で暴言ばっか吐くんですかね?」っていう主張も、そもそも議論なんて議論相手の価値観の存在を認めることからしか始まらないという考えに基づいています。

まぁ、兎にも角にも最近「暴」に寄りすぎですよね。それが今日感じた世界に対する思いと言いますか、まぁそんな感じですね。

 

明日で1週間、段々楽しくなってきました。これからもよろしくお願いします。