11/16 下らない愚痴:本日は憂鬱なれば

前回の記事を見ると察せるかもしれないのですが、結構心身が摩耗してきています。やっぱ3週連続模試って正気の沙汰じゃないですね。予備校各位はもう少し気を遣うべき。

 

政治議論の攻撃性が高すぎるという話を一番最初の記事でしたのですが、ここ最近殊更にそれを感じることが増えました。まぁ大体アメリカのせいかな......。ああいう世界情勢の混迷は憂鬱な気分を引き起こすので最近はあまり見ないようにしています。僕はサブカルチャーでハッピーに生きる...。

そんなこんなでやっぱり「わずかな攻撃性も無い議論の方式」が欲しいなぁという願望を強めました。民主政において「勝敗」が付くのは致し方ないことでしょうが、それを「勝敗」と見なさないような...。(実際の政治だと利権とかいうのが絡んでくるのでうまく行きやしないのでしょうが。現実はいつも厳しい)「社会政策」なんてのはそれこそ資本主義社会の社会主義に対する折衷案みたいなもので、そこには双方の勝利が存在しているはずなのですが...。

だいたい、今や「正義を信じる」「正道を守る」ことが「正道」じゃ無くなってませんか?いくら理想を唱えようとそれは理想だと唾棄される世の中になってしまったような気がしてならないのです。ずっと昔からそうだったのかもしれませんが。戦争で正義を標榜した国が本当に正義だったことなんて殆ど無いんですよね...。「歴史の相対性」は非常に大切な考え方ですが、あまりに相対化されたせいで「普遍的な正しさ」までもが相対化されてしまって僕は何を指標に生きればいいのやら分かりません。ニーチェのこと笑えなくなってきたな...(彼は相対的正義すら存在しないと言うトンデモな人ですが。)

こういう漠然とした不安感って驚くほど生活にも波及するんですよね。なんとなく勉強にも漠然とした不安感が漂うというか。(これは模試の結果が「漠然と」しているのも一因ですが。だから夏模試は受けてないんだよ!)そんなこんなで非常に心身を摩耗させているわけです。江戸時代に出された慶安の触書に「百姓は田んぼ耕して年貢さえ納めればそれ以外のことは考えなくていい超幸せな身分☆」っていう恐ろしさ漂う文面があるのですが、僕の中ではこれもあながち馬鹿に出来なくなってきてとても悲しい気持ちですね。世界のことなど見据えぬ方が幸せなのは間違い無いのでしょうね。そんな中で苦を受け入れることに意味があると言われるのかもしれませんが。

 

とまぁ、これも一種の愚痴です。前にも言ったようなことを再確認している面もありますが。どうにか現状の暗鬱とした気分を打破したい。

「空っぽ」を打破すること

自分が空っぽになってしまったかの様な気持ちになることが度々あります。もしかすると多くの人が同じ様に感じているかもしれません。自分の中から何も湧き出ず、己から何かが絶えず抜き出ていく様な気持ちになる。そうでありながら、自分の中に何かを受容する気力も無い。湯船に浸かりながらそのようなことを考えていました。

「空っぽ」、然してその内実は決して「空っぽ」では無いのでしょう。一見空の瓶の中には空気が詰まっていますし、「真空」ですらJIS規格を参照すると実際には「低圧状態」と言う方が適しているそうです。

一見「空」の瓶の中には何らかの物質が......変化の契機があるわけです。外部からの力によって何らかの化学反応が起きる...例えば空気だけが入った「空」の瓶を温め続ければ、空気が膨張する。その果てには瓶の蓋が開く。蓋の開いた瓶には「受容」の可能性が「開かれて」います。そうして瓶は内実を取り戻すことができます。

「空っぽ」と感じる人がその内実を取り戻すには「外部の働きかけ」が必要なのかもしれないと思ったのです。ついでに言うと、それは「現実的な」力であるのが理想的なのかもしれません。

僕はSNSを代表とするバーチャルな空間について、都市社会で個人同士の繋がりを失った我々にとって、新たな繋がりを構築することが出来る福音であり、可能性であると考えています。しかし、この「外部からの働きかけ」において最も効力があるのはリアルな...身体感覚的に捉えられるような力のような気がしているのです。

例えばdiscordとかZoomとかで「耳」を使って何者かの話を直接に聞く...これは身体的実態のある力だと思うのですが、ただ他者の投稿を見る...これも目を用いているのですが、そこに力を持つ確かな人間の存在を感受するのは難しい気がするのです。タイムラグとかが関係があるのかもしれません。

例え通話であろうとそこには僅かなタイムラグが存在するわけですから、やはり最も効果を持つのはface-to-faceの働きかけなのかもしれないと思ったのです。

自分の「蓋」を緩めるような強い力、それを感じることが無い...最近は1人で勉強しすぎだからかもしれません。多少誰かと一緒に勉強する方が刺激になるかもしれない?

変化の契機は外部との接触によってもたらされるものですね。非日常を経て自身と日常の変化・新たな可能性を得る......というような。(似たような話が2016年の東大で出ていました)

 

今日はかなり適当に書いてて論理もめちゃくちゃですが、とりあえず現状感じている謎の鬱屈感を打破するために少し交流を増やそうと思った次第です。目の前のことに追われるだけでは心が摩耗しますね。

11/10 きょうだい関係の近しさ

僕には姉が一人います。姉はかなり激しめの反抗期を経たので反動で僕の反抗期が超大人しかったり、奴が勇敢にもリビングでアニメを見ていたが為に僕に伝染してたりと、まぁそこそこ影響を受けて育ってきたわけですね。

そんな姉もそこそこの年で、大学に行って一人暮らししているわけです。先日少し実家に戻ってきまして、やはり懐かしく嬉しい気持ちになるものだなぁと思いました。

ところで、アジア文化圏には「きょうだいの契り」とやらがあるじゃないですか。「親子の契り」もありますかね。同じ杯を酌み交わし義兄弟となる......みたいなのは三国時代の中国で既に盛んだったらしいです。

僕の中ではちょっと任侠っぽいイメージなんですよね。組長と組子が親子の契りを交わし、同胞と兄弟の契りを交わすぜ......的な...。あと最近だとFE風花雪月をやった時に、5年後のクロード君が理想を同じくする先生である主人公へきょうだいの呼称を使いますね。

ここで何が言いたいかというと、同じ血縁関係でもやはり「親子」は朱子学的な主従的関係を抜け切れないのかもなぁ、と考えたのです。

親子の契り、とやらは単純な「主従関係」を「血縁的関係」を模した強い関係に仮託するように思えます。対してきょうだいの契りは「同胞」だとか「仲間」だとかの関係を血縁的関係に仮託して強固にするみたいな感じですかね。

つまり「きょうだい」はどこか「仲間」の延長の側面を有していると言えるかもしれません。

こと日本において、惣領が成立してからか朱子学が主流となってからかは分かりませんが、親子関係というのはどうしても上下関係になるものです。いくら先進性を自負し対等性を支持する家庭でも、どうしても僅かにこうした上下関係が現れてしまうのではないかと勝手に想像します。なので、「きょうだい」に親近感の側面では勝てないですよね。庇護者としての強さはあれ、そこに立場の対等性は無いですから。まぁそもそも同時代に似たような生活をして暮らした、というのがまず一番に大きいのだろうと思いますし、そもそも円滑な兄弟関係の家ばかりじゃないでしょうから、これを一般化して述べるのは非常に危険だと自分でも思いますが!

ちょっと最近は両親への苛立ちが重なっているというか、正直うちほど寛容な両親に苛立つのはどうなんですか?と僕の理性が叫びはするのですが、まぁなんと言うか......ちょっと老けた!言動がアラフィフなんですよね...まぁアラフィフだからなんですけど......。で、そういうのって若者には大抵耐え難い.....耐え難くないですか?そんなこんなで、僕に比べてはっきりものを言う姉のことを思い出し「助けてくれ〜〜」などと思っていた為にこういう文章を書いているわけです。

「きょうだい」は「同じ時代に生きた」こともあるでしょうが、「仲間・同胞の延長」である側面故に、親子とは少し違う近しさを感じるのかも?というそんな推測でした。

11/7 永劫回帰と僕のちょっとした死生観

こんばんは。代ゼミの模試が乙ってかなりメンタルに来てます。先週の河合のはさほど悪くなさそうとは言え......。

とりあえず今日は短めに1つ。

 

・死生観の話

最初の方の記事で、墓の話をしたと思うんですよね。このあいだ祖母が我が家に数日滞在しておりまして、自然と死んだ祖父の話になったりするわけです。すると、やはり両親、ひいては祖母は自分の死について考えたりするんですね。

父はどうも墓を建てて貰わなくてもいい様子。しかしながら、母はやはり墓が無いと不安そうな様子。また、「墓」についてどう思うかは、仏壇のある家で育ったか否かも関係ありそうでした(母方の実家には仏壇があります)。

そんなこんなで、自分の死生観のことを考えたりしたのです。

ニーチェの「永劫回帰」ってあるじゃないですか。ニーチェがその論理の中で言いたかったこととは「99.999...%関係ない」のですが、僕の中ではあれが「宗教的な」意味を持っています。

ニーチェ永劫回帰論は諸々の宗教にありがちな「転生」とは意味が異なり、前世→来世ではなく、現在→現在→現在→...という形です。幾度死のうとその先に同じ現在がある、と僕は勝手に解釈しまして、すると自身の意思がそこに復活するように思えるので、死んだらまぁその時だと思えますし、繰り返すならば死ぬまでの生をより輝かしい物にしたいと思えるのです。そういう点で生に対して肯定的な味方が出来るので、僕はこの思想を「選択」しました。

宗教は決して詳らかに出来ない「自分の」死に意味や説明を与えてくれますから、僕は宗教の必要性を否定しません(宗教が結果として引き起こす諸々の悲劇に対して深く悲しみはしますが)。決して理解不可能なことに自分が納得できる説明を与えてくれるような宗教を選択するのだと思いますし、僕も宗教的にこの死生観を選択しています。

とはいえ、「ある1つの石を投げ続ければ、異様に低い確率とはいえ何時かある同じ一点にその石が落ちる可能性がある」というのは割と納得がいくと思いません?「ある物理運動が繰り返されれば、何時か同じ宇宙が生まれ同じ存在が生まれ得る」ってことなんですよね。宗教観に合理的説明をするのはかなりお粗末だと思うんですけど、ある種の「物語」として好んでる言説です。(実際のところは、最近の自然科学では「同じことが起こり得るとは限らない」って説明が可能らしいんですよね......理系って凄いよマジで...)

ニーチェの「超人」思想とか、永劫回帰思想の本質とか、その先で彼が考えていたようなこととかを説明するのは正直知識不足ですし、第一に僕にも理解しづらいので省きます。まぁ彼の思想を援用して僕が勝手に編み出した死生観とでも思って頂いて。彼の善悪感なんかは正直支持し難い......

永劫回帰論は科学的には否定されてしまうものですけど、僕個人の心の中で一種の宗教的意味を持っていますよ、というそれだけのお話です。

無宗教の人間が生と死(「自己」とかもそうですけど)について深く考えるのはかなり危険だと思っているので、早い段階で何か安心できる死生観を得られたのは良かったかもしれません。

 

なんでこういうことを書こうと思ったかと言うと、うん10年経ってこれを見返した時に(正直見返しそうにないですけど)自分の死生観が変わってたり、僕がムスリムになってたりしたら面白くないですか?面白くないかもしれませんね。まぁそんな一種の試みとして、という訳です。

今日はまた一段と個人的なことを書いていますね。どうぞお許しを。

11/4 人文「科学」?:脈絡の無い意見

本日の現代文演習を早々に終わらせ、少々ボーッとして、こういう時にブログの題材でも考えようと思い巡らせていました。

自身のブログについて考えていたところ、現代文......つまりは他者の考え・意見から題材を得て、それを自身の経験=具体に落とし込んで感想を述べることが多いなと思い至りまして。

誰々が何々を言っていて、それについて僕もこういう経験があったな、だったらこうも解釈出来そうだな、こうだったらもっといいな、とかそういうことを書き連ねています。

これって、一般的な「学問」とは逆かもしれないですよね。

一般的に学問、特に科学というのは周囲の個々の事象からより広い「法則」を見つけ出すものですよね。ニュートンが「リンゴの落下」から「万有引力の法則」を見つけ出したように、どこぞの物理学者が「クソデカ分子衝突させマシーン」から「なんちゃら粒子」を見つけ出すように(文系並の説明)、個々の事物からより広い事実を見つけ出すわけです。

ところがこのブログとやらはそんなものとは無縁ですから、どんどん一般を個へと収束させて自己満足を得ております。

多くの現代文の文章に扱われる題材に...人文「科学」ってあるんですよ。あるいは社会科学ですかね。この人文科学とやらの通説って、「個」に落とし込むと矛盾を生み得るものがまぁまぁあるんですよね。「僕には当てはまるけど、これ本当に皆が皆そうか...?」みたいな。

科学って帰納法なので個別の事象にエラーが含まれているならばそれらから得た一般理論もエラーがあると考えられるはずなんです。なのでこの人文科学は「科学」と呼ぶのは非常に難しくないか...?なんて考えていました。

まぁそもそも科学はイレギュラーをある程度無視しないと成立しないので、こういうことを言うのは詮無きことかもしれません。

にしても、「行動科学」なんかはまだ「脳科学」の範疇みたいな感じで受け入れられるんですけど、よくよく考えたら「人文科学」って何ですかね。Wikipediaを見ると「人間・人為の所産、それらを生み出す人間本性」を研究対象とするってあるんですけど...正直これのページは出典がゼロなので信用なりませんが。あと「科学」のページを見ると「広義の科学」とは「体系化された知識や経験の総称」らしいですね。

人間って体系化可能なのでしょうか?脳の働きは体系化できても、果たして人間の非理性的行動を体系化できるのか......それを体系化しようとする果てにあるのは「異常者」の烙印なのでは?「完全に型通りの人間」って殆どいないと思うんですよね。生物は多くの揺らぎを孕んでいると思っているので。

そもそも人文科学は「社会的に作られた人間の行動を勝手に体系化して人間本性だと宣うている」ように思えてきました。ドツボですね。そもそも相対的な人間の行動を体系化、ある理論のもとに規定することこそが、「一般的」な人間の型を作っているように思えます。つまりどういうことが言いたいのかというと、人文「科学」って呼ぶのは本当に正しいのだろうか?ということです。

 

今日は特に脈絡がない文章を書いていますね。本当に適当に書いたので許してください。ヒルに考えてた時はもっとまとまってたと思うんですけどね......。あるいは「考えはまとまっているべき」という「体系」に縛られ、自然にそう考えていたのかもしれませんが?

もっと理性的で論理的に書けるように精進します。

11/3 ペースが落ちる話

こんにちは。模試続きで書く暇無かったので許してください......。

模試なんですけど、英語がポシャったのが大きな反省点ですね。時間配分に気をつけます。

 

・日々に追われる幸福?

先週から3週連続で模試がある関係で、僕の毎日ら非常に忙しない日々と化しました。その結果、何かに思い至ることが減り...無くなりました。やはり目前に何か差し迫ったものがあると「余力」とやらはそれに割かれてしまいますね......。あと、何か問題文なんか読んでも自分の中で内容より結果(成績)が先立つようになってしまう感じです。

しかしながら、僕がこのブログを書き始めた当初の精神状態からするとこれはとても幸福なことです。少なくとも、比較的不要な思考で生活を乱されることはありませんし...。

なので、少なくとも今月いっぱいは少々投稿ペースが落ちると思います。あと流石に2月は落ちるだろうなぁ......。

ただ、ブログを書き始めてから現国の回答製作スピードが格段に上がったように感じるので、コンスタントに短くとも何か書いておきたいとは思います。

 

前に読んだ谷川俊太郎氏の随筆で、「作品」(詩作)をつくるときは自身がなにか別のもの(恐らくここでは日本人・日本語の共通感覚みたいなものだったはず)に沈殿するからそれを発表することに不安は無いが、説明的な「文章」を書くときはそれが他者に必要とされているかに不安がある......みたいなことが書いてあった気がするんですよね。確認していませんが。ブログなんてものは他者に必要とされることは多くありませんし、何か日本人共通の感覚に接続した上で書いている意識も僕は持ち合わせていないので、このブログは完全に「己」の為のものですね。如何せん読書をせず暮らしてきたので、イマイチ社会の共通感覚みたいなものをインストール出来てない気がします。(読書欲の高まりもブログ書いてから激しいです)ただやはり何となく、折角書くなら少しは面白味のあるものにしたいですし、自分の考えが他者に受け入れられるような感覚はとても幸福なものだな、と思うわけです。

 

ともかく、これからは更にテキト〜〜〜な文章になると思いますが何卒御容赦を。

10/29 日本語は議論に不向き?:コメントへの返事を兼ねて

こんばんは。なんと初めて見ず知らずの方からコメントが来ましてビックリしちゃいました。

 

・コメント

コメントを頂いたのは2週ほど前にした悪辣な愚痴......正当性と議論不能性への愚痴でした。

コメントを下さった方によりますと、

①日本人が正当性を理解しづらいのは、(明治維新の影響もあり)日本の慣習と日本の法が噛み合っておらず、「慣習」(暗黙の了解やらなんやら)と「法」の2つの正当性が混在しているから......とのこと。(ちゃんと捉えられてるか分からん〜〜〜)

②そして議論が出来ないのは、そもそも日本語自体が、責任の所在が不明確で議論に不向きだから......とのこと。

 

なるほどな〜〜って感じです。①なんかは全面的に納得しました。如何せん僕は言語化が不得手なので、何とな〜く感じているようなことを言語化して頂けると非常に助かります。

 

ところが②......納得する面はありますが、僕は全面的に納得という感じではありません。日本語が議論に向かない、というのは、「即興の議論に向かない」ということに過ぎないと思うのです。

日本語は主語が無くても成立しますし、文末まで聞かなければ「opinion」なのか「fact」なのかもハッキリしません(正直聞いてもハッキリしない)から、責任の所在が曖昧になるのはまさにその通りだと思います。だから即興の場では意見整理がしづらい。いわゆる「ディベート」をやろうとすると「場」を整えないといけません。

しかし日本人が議論を出来ない根本的な理由は、それこそ①で出たように「暗黙の了解が強い」からだと僕は思うんですよね。明確にものを言うと白眼を向けられる、「出しゃばるな」みたいな暗黙の了解。僕もこのブログはかなり濁した言い方しかしませんし。敵作りたくないですからね......。

「ハッキリものを言わない」はもう文化なのでどうしようもないでしょう。ただ、僕は「ハッキリものを言うこと」がディベートの前提条件とは思えないのです。曖昧な言い方、真偽のはっきりしない言い方、どっちつかずの言い方......そこには当然2つ以上の考えが含まれます。いわゆる「ディベート」......「欧米式のディベート」って、ほぼ必ず「肯定」と「否定」に分かれるじゃないですか。ですから、国際的な「ディベート」の場面では日本人は大いに遅れをとるのだと思います。しかしながら日常的な議論の場で、必ずしも片側の意見を持たなければならない道理はないでしょう。2つの意見を持ちつつ、どちらがより良い案なのかについての議論を重ねる......そこに対立が存在する必要は無いと思うのです。まぁ「ディベート」って「議論における論理能力」を涵養するためのものという性格があるように感じるので、一概に比べるのは非常に浅慮な気がしておりますが。許してください......。

要は、僕は「日本式ディベート」の可能性を探りたいのです。「ディベート」というとマズいかもしれまんね。「日本式意見統一」でしょうか。もちろん議論が起こる以上初めには意見対立の軸が存在するのでしょうが、それを可能な限り融和へ近づけるための手段が必要だと思うん のです。

日本人の「奥ゆかしさ」を重んじる文化を持ちつつ、同時に議論ができるような、そういうセオリーが必要ですよね。日本にただ欧米式ディベートを持ち込むだけでは、それこそ「法」と「慣習」の二重正当性みたいになってしまうと思いますし。

まぁ、完全に理想論で「じゃあどうすんの?」って言われたら詰むんですけど!(そのために大学行くんだよ!)

 

兎にも角にもコメントを頂けて嬉しかったです。やはり完全に理論立った意見を書くのは困難でした...許してください......。結局理想論になってしまいましたが。名も知らぬ人ですが、どうぞまたよろしくお願いします。