11/19 心のカオスの縁・可能性の卵

今日なんか停電起きて全く勉強できませんでしたが、全部電力会社のせい(電力会社のせいではない)にしていきたいと思います。

今日もまた感情感情感情で理論は棚上げした感じですが許して下さい。

 

自分の生について考えてしまった時、つい自身の死へと思考を向かわせてしまうことが多々あります。思うに、生について考えることと、死について考えることとは、表裏一体で不可分なことなのかもしれません。生と死は二律背反でないですし、そもそも自分の「生きている」状態こそが「生きる」と「死ぬ」の中間で、常にどちらにも傾きうるように思えてきました。

いつやって来るか分からない「死」を恐れながら精一杯に生きた「生」の最後の輝きこそが「死」なのだというのは僕がビフ〇ンスさんから得た天啓なのですが、つまり「生」は輝かしく「死」もまた輝かしいのだなぁ、と。

 

そんなことを漠然と考え(思い出し)ているうちに、ふと「カオスの縁」という言葉を思い出しました。確か2、3年前の東大で出てきたんですよね。かのセル・オートマトンの研究の中で出てきた、「混沌」でもなく「秩序」でもない、混沌の「縁」にある状態のことを言うそうです。2つの極端に異なる状態の中間に、そういう超複雑な状態が現れるとのこと。その文章では、例えば「水」は強固な「氷」と無秩序な「水蒸気」の中間たるカオスの縁だとか。

この文章が最終的に何を言っていたかというと、人は「カオスの縁」に佇んで、混沌として世界から秩序的なものを生み出すものだ。しかしそうやって全てのものが秩序的に組み立てられた存在になってしまった揺らぎのない世界はきっと息苦しいだろう。世界は「分からないこと」に満ちていて、「分からないこと」を「分かること」にしていくことが人の営み・喜びであり、「分からないこと」の存在は「分かること」と同様に人にとって価値あることだ。人の知的な活動は「分からない世界」でしか発揮されず、「分からない」からこそ、多様な選択、多様な在り方、多様な知性のそれぞれに価値が生まれるのだ......みたいな感じでした。

僕はこの一週間くらい、(またもや)自身の心の矛盾について強く絶望して何となく死にたい気持ちになっていたのですが、この「カオスの縁」を思い出したとき何か天啓を得たような気持ちがしました。強い背反(感情と理性の矛盾)を有し、その中間に在る「僕」の中にはきっとまだ多様な可能性が眠っているに違いない、と思えたのです。(冒頭で生と死の話をしたのは、「生きている」ことのうちに、そもそも圧倒的な多様性が存在するのではないかと思ったからです。自分でも何か飛躍しているような気がしてならないのですけど!)そう思うと、自分の矛盾する心自体をより肯定的に受け止められるような気がしたのです。自分で言うのも何ですが、大体僕まだ若いですし...()そんなに気にすることも無いのかな、と思えました。

 

あんまり自分の将来に深く悩まずに、目の前のことに追われて、楽しいことを楽しむくらいでちょうど良いんだろうな〜!と、そういう話です。なかなか身勝手な言説かもしれませんが、何となく自分の中で得心がいったのでメモとして残しておこうかと思った所存です。