「空っぽ」を打破すること

自分が空っぽになってしまったかの様な気持ちになることが度々あります。もしかすると多くの人が同じ様に感じているかもしれません。自分の中から何も湧き出ず、己から何かが絶えず抜き出ていく様な気持ちになる。そうでありながら、自分の中に何かを受容する気力も無い。湯船に浸かりながらそのようなことを考えていました。

「空っぽ」、然してその内実は決して「空っぽ」では無いのでしょう。一見空の瓶の中には空気が詰まっていますし、「真空」ですらJIS規格を参照すると実際には「低圧状態」と言う方が適しているそうです。

一見「空」の瓶の中には何らかの物質が......変化の契機があるわけです。外部からの力によって何らかの化学反応が起きる...例えば空気だけが入った「空」の瓶を温め続ければ、空気が膨張する。その果てには瓶の蓋が開く。蓋の開いた瓶には「受容」の可能性が「開かれて」います。そうして瓶は内実を取り戻すことができます。

「空っぽ」と感じる人がその内実を取り戻すには「外部の働きかけ」が必要なのかもしれないと思ったのです。ついでに言うと、それは「現実的な」力であるのが理想的なのかもしれません。

僕はSNSを代表とするバーチャルな空間について、都市社会で個人同士の繋がりを失った我々にとって、新たな繋がりを構築することが出来る福音であり、可能性であると考えています。しかし、この「外部からの働きかけ」において最も効力があるのはリアルな...身体感覚的に捉えられるような力のような気がしているのです。

例えばdiscordとかZoomとかで「耳」を使って何者かの話を直接に聞く...これは身体的実態のある力だと思うのですが、ただ他者の投稿を見る...これも目を用いているのですが、そこに力を持つ確かな人間の存在を感受するのは難しい気がするのです。タイムラグとかが関係があるのかもしれません。

例え通話であろうとそこには僅かなタイムラグが存在するわけですから、やはり最も効果を持つのはface-to-faceの働きかけなのかもしれないと思ったのです。

自分の「蓋」を緩めるような強い力、それを感じることが無い...最近は1人で勉強しすぎだからかもしれません。多少誰かと一緒に勉強する方が刺激になるかもしれない?

変化の契機は外部との接触によってもたらされるものですね。非日常を経て自身と日常の変化・新たな可能性を得る......というような。(似たような話が2016年の東大で出ていました)

 

今日はかなり適当に書いてて論理もめちゃくちゃですが、とりあえず現状感じている謎の鬱屈感を打破するために少し交流を増やそうと思った次第です。目の前のことに追われるだけでは心が摩耗しますね。