11/7 永劫回帰と僕のちょっとした死生観

こんばんは。代ゼミの模試が乙ってかなりメンタルに来てます。先週の河合のはさほど悪くなさそうとは言え......。

とりあえず今日は短めに1つ。

 

・死生観の話

最初の方の記事で、墓の話をしたと思うんですよね。このあいだ祖母が我が家に数日滞在しておりまして、自然と死んだ祖父の話になったりするわけです。すると、やはり両親、ひいては祖母は自分の死について考えたりするんですね。

父はどうも墓を建てて貰わなくてもいい様子。しかしながら、母はやはり墓が無いと不安そうな様子。また、「墓」についてどう思うかは、仏壇のある家で育ったか否かも関係ありそうでした(母方の実家には仏壇があります)。

そんなこんなで、自分の死生観のことを考えたりしたのです。

ニーチェの「永劫回帰」ってあるじゃないですか。ニーチェがその論理の中で言いたかったこととは「99.999...%関係ない」のですが、僕の中ではあれが「宗教的な」意味を持っています。

ニーチェ永劫回帰論は諸々の宗教にありがちな「転生」とは意味が異なり、前世→来世ではなく、現在→現在→現在→...という形です。幾度死のうとその先に同じ現在がある、と僕は勝手に解釈しまして、すると自身の意思がそこに復活するように思えるので、死んだらまぁその時だと思えますし、繰り返すならば死ぬまでの生をより輝かしい物にしたいと思えるのです。そういう点で生に対して肯定的な味方が出来るので、僕はこの思想を「選択」しました。

宗教は決して詳らかに出来ない「自分の」死に意味や説明を与えてくれますから、僕は宗教の必要性を否定しません(宗教が結果として引き起こす諸々の悲劇に対して深く悲しみはしますが)。決して理解不可能なことに自分が納得できる説明を与えてくれるような宗教を選択するのだと思いますし、僕も宗教的にこの死生観を選択しています。

とはいえ、「ある1つの石を投げ続ければ、異様に低い確率とはいえ何時かある同じ一点にその石が落ちる可能性がある」というのは割と納得がいくと思いません?「ある物理運動が繰り返されれば、何時か同じ宇宙が生まれ同じ存在が生まれ得る」ってことなんですよね。宗教観に合理的説明をするのはかなりお粗末だと思うんですけど、ある種の「物語」として好んでる言説です。(実際のところは、最近の自然科学では「同じことが起こり得るとは限らない」って説明が可能らしいんですよね......理系って凄いよマジで...)

ニーチェの「超人」思想とか、永劫回帰思想の本質とか、その先で彼が考えていたようなこととかを説明するのは正直知識不足ですし、第一に僕にも理解しづらいので省きます。まぁ彼の思想を援用して僕が勝手に編み出した死生観とでも思って頂いて。彼の善悪感なんかは正直支持し難い......

永劫回帰論は科学的には否定されてしまうものですけど、僕個人の心の中で一種の宗教的意味を持っていますよ、というそれだけのお話です。

無宗教の人間が生と死(「自己」とかもそうですけど)について深く考えるのはかなり危険だと思っているので、早い段階で何か安心できる死生観を得られたのは良かったかもしれません。

 

なんでこういうことを書こうと思ったかと言うと、うん10年経ってこれを見返した時に(正直見返しそうにないですけど)自分の死生観が変わってたり、僕がムスリムになってたりしたら面白くないですか?面白くないかもしれませんね。まぁそんな一種の試みとして、という訳です。

今日はまた一段と個人的なことを書いていますね。どうぞお許しを。